歴史

長昌寺の歴史

日常上人に心を動かされた寂海法印は、この地で長昌寺の礎を築きました。

深榮山長昌寺(しんえいざんちょうしょうじ)はもと妙昌寺といい、弘安二年(1279年)六月二日、日寂上人によって武蔵国豊嶋郡石浜庄橋場(としまごおりいしはまのしょうはしば)に開創されました。
日寂上人はもと金竜山浅草寺第三世の座主で、高徳公才の高僧として厚い崇敬が寄せられていました。
弘安二年の春、たまたまこの地に留錫した日常上人(『長昌寺雑記』参照)と宗論を交わした寂海法印は、「仏法の真髄は法華経にある」と説く日常上人の信仰に強く心を動かされ、ただちに身延山に登って日蓮聖人に接し、「釈尊本懐の妙理」を聴聞しました。
「胸中の雲霧初めて晴れ」(『聖観世音菩薩略縁起』)た寂海法印は数珠を断って日蓮上人の弟子となり、名を日寂と賜りました。
このおり法印(日寂)に随行した弟子の、本覚房、河内房もともに宗を改め、日増、日可の名を賜っています。
浅草寺に帰った日寂上人は、全山をあげて日蓮宗に改宗すべくつとめたものの事は成就せず、意を決した日寂上人は閻浮檀金・観世音菩薩(『庶民信仰と長昌寺』参照)の尊像を、古銅の宝塔に納めたままこれを背負い、日増、日可とともに浅草寺をたち退き、橋場の地に一宇を開創し妙昌寺と号しました。江戸府内における日蓮宗門第一の旧刹です。

日常上人に心を動かされた寂海法印は、この地で長昌寺の礎を築きました。

略年譜

1279 【弘安二年】 春、浅草寺三世・寂海法印、日常上人と宗義を論ず。ただちに宗を改め、身延山に登り日蓮聖人の直弟子となり、日寂と改む。六月二日、浅草(橋場)の地に一宇を創し、妙昌寺と号す。このおり浅草寺より「閻浮檀金・正観世音菩薩(一寸八分)」を移し安置す。(一説に弘安五年ともいう。)
1286 【弘安九年】 十一月一日、開山・日寂上人遷化す。
1321 【元享元年】 当山、水難に罹り諸堂宇流失し、梵鐘も河中に沈む。「鐘が淵」の名の濫觴という。三世・日可上人、寺地を現在地に移して当山再興し、寺号を改め「深榮山長昌寺」と号す(『浅草名跡志』)。
1590 【天正十八年】 後北條氏亡ぶ。徳川家康、江戸へ入部す。
1596 【慶長元年】 酒井忠次(徳川四天王の一)歿。
1608 【慶長八年】 家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く。
1596 【慶長年中】 当山が、酒井家の祈願所となったのはこの頃のことか。(1596~1614年)
1615 【元享元年】 幕府「諸宗諸本山諸法度」を定む。当山、改めて身延山久遠寺と本末関係を結ぶ。
1622 【元和八年】 酒井忠勝、鶴岡藩主となり十四万石を領す。
1615 【元和年中】 当山、酒井忠次により再興すと『江戸紀聞』にあり。七面社、三十番神社の建立はこの頃のことか。(1615~1623)
1640 【寛永十七年】 幕府「寺請制度」を定む。
1688 【元享元年】 庶民の間に寺社詣でが盛んになる。当山への参詣人あとを絶たず。(1688~1703)
1720 【享保五年】 六月、二十二世・日津(律)上人、梵鐘を再鋳す。
1825 【文政八年】 「寺社書上」を提出す。四十八躯の尊像を安置す。
1864 【明治元年】 江戸幕府崩壊。明治新政府樹立。「神仏分離令」公布され廃仏毀釈運動広まる。
1877 【明治十年】 九月、『寺院明細簿』を提出す。
1945 【昭和二十三年】 三月十日、空襲禍によって諸堂宇灰燼と帰す。
1982 【昭和五十七年】 宗祖日蓮聖人七百遠忌。本堂大修復、客殿・庫裡の新築成る。
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